第19回 難聴者の心理について②

テレビなどを、見ていたら、お笑い芸人が、「リアクション」がいいとか悪いとか言っているのを聞いたことがあります。

 ビックリするところで驚いて、面白いところで大笑いして、顔の表情豊かに、体の表現大きく反応するということをリアクションがいい!とか反応がいい!と言うようです。

 ジョークを飛ばし、それに対して、またジョークを返し、大笑いする。会話のキャッチボールとは、普通こういうことのようですが、僕たちには、よく聞こえていないことから、いつだって、どんな時も、リアクションよくというわけにはいきません。会話が充分に聞こえ、的確に理解していれば、そうすることができますが、聞こえないことが多くなってくると、だんだんリアクションしない傾向になります。
というより、もともと聞こえていないから、表情の出しようがなく、リアクションのとりようもないのです・・・

 周りで、雑談をしているのに、自分達はその中に入ることが出来なかったり、話の輪の中に加わることが出来ない時、僕ら難聴者は、一様に無表情になるのです。

 その表情は、あえていうならば、聞こえない事へのもどかしさや、やりきれなさを含めた「怪訝な表情」とでも言うべきでしょうか?

 そんな中、僕は、何を聞いてもビックリしないような、逆の心理状態に陥る時もあります。

 僕が初めて聞いたことや聞こえたことは、周りの人にとっては、ずっと前に出ていた話題の可能性がほとんどだから、あえて喜怒哀楽の表情を顔に出さず、知っているフリをするのです。

①の場合

Aさん
「土曜日の忘年会、行くの?」

「忘年会って、土曜日だったん?」
Aさん
「えっ?何言よん!今頃!前にちゃんと、皆に連絡しとるでよ!」

②の場合

Aさん
「土曜日の忘年会、行くの?」

僕の心の声
(えっ?そろそろだとは思ってたけど、土曜日だったのか・・・)


「まだ決めてないんよ!」

①の会話の場合だと、聞こえたことに対して、そのまま感情や感想を表に出した結果、このようなちょっと泣きたくなる会話になっていますが、②の場合は、自分の中で、一度整理し、「忘年会は土曜日」という既成の事実を作りあげた結果、知っていたフリをしている会話にしてしまっているのです。

 もちろん、そのことばかりを気にしていては、積極的な会話に繋がらず、むしろ、消極的な姿勢のままになってしまいます。知らず知らずのうちに、子供の頃から、聞こえたフリや、知っているフリをすることが身についてしまっているようなのです。
 そして、相手が笑っているから、この話題は「笑」なのだと、理解することによって、愛想笑いなどもしてしまうのです。

 もっとも僕の場合は、表情が特に乏しいようなので、高校の時、なにかの話題がひどくツボにはまり、ウケて大笑いした時に、「ntさん笑ったところを初めてみた!」って言われたり、香川の難聴協会へ初めて、お邪魔させて頂いた時にも「暗いな~」なんて言われて、僕自身そんなに笑ってなかったのかな・・・と思ってもみたものです。

皆さんとの交流で表情豊かに、腹の底から大笑いして、心の底から、共感し合いたいものです。

 

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第17回 映画の字幕について

このところ、映画を鑑賞する機会が何度かありましたが、そこで感じたことを書きたいと思います。
映画を鑑賞する時は、もちろん、邦画より洋画で、吹き替え版より字幕付きです。
洋画吹き替え版やアニメなどは口元の動きが分かりにくいので、というより、口元の動きで読み取るいわゆる「読話」が出来ないので、ストーリーの全体はなんとなく、つかむことが出来ても、詳細までは分かりません。
アニメなどの口元の動きは、キャラクターが発する言葉の内容と合致せず、それは、あってないようなものなので、理解することが特に難しいのです。こうなると、動きや表情などで理解する他、仕方がありません。

そういった意味で、邦画の場合であれば、口元の動きを見て、判断することが出来るので、少しはましですが、分かりにくいという意味では、同様です。

学生の時に、今で言う、認知症の関連の映画をみて、先生から、感想文を書きなさいと言われたことがあるのを思い出します。
自由奔走なおばあさんがいて、介護している女性が一人、おばあさんは認知症であるため、こちらの言うことには耳を傾けてくれない、そんな内容でした。

それを見終わった時、この映画は、「認知症の問題点を、社会に投げかける映画だったのかな?」それとも、「介護者の姿勢や、高齢化についての問題提起の内容だったのかな?」とか必死に考えたのですが、よく分からないままで、感想文を書くのに、非常に困った思いをしたものです。

このように、映画を見ても、よく分からないままに、終わってしまうと、ストレス発散どころか、「なんなのかなぁ~?」と余計にストレスがたまる原因になります。

ストーリー性がはっきりしている映画は結果として、目で見てわかりやすく、だいたい理解できます。

ストーリーにもよりますが、恋をしてふられてまた成就するといった展開や、ヒーローが悪と戦う物語等々は、ある程度分かりやすい単純なものなので明確ですが、鑑賞者自身が判断したり、鑑賞者の感性に委ねられるような内容の映画の場合は、表情や台詞が十分に自分自身に届いていなければ、全体が分かりません。

もちろん邦画にも字幕はついていますが、上映する時間や地域が限られていたり、まだまだ充分ではありません。

映画や舞台の、要約筆記や字幕による情報保障の充実を求め、いろいろな団体が、要望や訴えをおこしているようです。
①劇場や娯楽施設や文化施設での文字による情報保障(せっかく、見たいと思っていても、会話が聞き取りづらいことで、楽しむことが出来ないので、断念せざるを得ないケースがよくあります。)
②ミュージカルや舞台について、また各講演、文化施設においても字幕での文字による情報の保障の義務付け
③テレビ放送の字幕化の充実(テレビ放送での字幕の拡大の、今以上の充実)
④邦画DVDなどのメディアに対する字幕化の拡大

ちなみに、僕が、初めてミュージカルを観た時に感じたことは、演者の表現力に感動したり、パワーに圧倒されて、感激したりなどですが、率直な一番の感想は、こんな気持ちでした、

「僕達にとっての一番はやはり、要約筆記です。要約筆記のおかげで、色々な人が入り混じって喋る騒々しい、非常に聞きづらい状況ではありましたが、複雑な物語の内容を大部分理解することが出来ました。」

もっともっと字幕や要約筆記が映画や舞台にも拡大して、我々難聴者に安心して楽しめるようになって欲しいと思います
 nt

 

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第16回 難聴者の心理について①

難聴者は一般的に聞こえたフリをしたり、聞こえないままで、すごすことがよくあります。
そうするつもりもないのにそうしてしまう、そうせざるを得ない心理とでも言いましょうか。
相手の「面倒くさい」と思わせる表情や「イライラしている」ような仕草などを察知し、聞き返すことに臆病になったり、億劫にもなるのです。

 自分と相手の二人だけの会話の場合だと、まず、聞き取りやすい状況であることがありますが、自分が聞こえていなければ、あるいは分かっていなければ、会話が進みません。なので、自分が主となり、相手と会話を進めているなかで「エッ?」と聞き返さざるを得ないのですが、複数での会話の場合は、そうはしない、そこまではしない心理があります。

 どういうことかと、申しますと、自分が会話に入らなくても、A・Bさんが話していることで、会話は進み、経過と共に、おおまかな話の内容が後になって、分かったり、部分部分に聞こえてくる話の内容で考え、話題を探ることを出来るときがあるからです。

 一度、「エッ?!」と聞き返し、さらにもう一度、聞き返すことで、言葉の破片を少しずつ手に入れ、会話のヒントをさらにつかめたとしても、同時に、相手に不快感を与えているような気がするので、何度も何度も聞き返す必要性がない場合はそこまではしません。

 ただ、A・Bさんの間で既出の話題が、急に自分に、ふられた時には、聞こえていないことが多々あるが為に、「さっき言うたで!」とか、「物わかりが悪いなぁ~」と、このように言われることがあります。
そう言われることが、自分にとって、恥ずかしく、腹立だしく、悔しく、そして切なくなります。

 聞こえるまで何度でも聞き返しなさいとは、難聴者皆、よく言われるところですが、このような理由もあり、強く自分の中で聞き返すということをしないことがあるのです。

そして、最終的には、自分を納得させるのです。
「雑談程度については、聞こえなくても、差し支えないよな・・・」と。

これが、仕事の場合だと、そのような姿勢では、業務内容に差し支えるので、配慮を求めたり、態度を改めないといけませんし、聞こえるまでというより、分かるまで理解するまで、コミュニケーションをきちんと、とらなければなりません。

 僕の場合ですと、職場で休憩中、雑談をしている時に、自分にとって、聞き取りにくい声質の持ち主である、女性が雑談をしていても、よく聞き取れません。ところどころで、「あ、このことを言っているのだなぁ~」とか、聞き取れても会話についていくことは、大変難しいです。

 しかしながら、男性の声質であれば、比較的、聞き取りやすいため、その男性を通せば、聞き取りやすさを増し、さらに理解が深まるのです。もちろん、これは、僕の場合ですので、人によれば、女性の声質、いわゆる、高音だけが、聞き取りやすいとか、低音高音を問わず、全体的にもっと大きく喋ってもらわなければ聞き取りにくい人もいるわけで、一概にいかないところが、また難しいところです。

 雑談に要約筆記を派遣するわけにはいきませんが、そんな会話こそが、実は、本当に聞き取りたかったりするのです。

 P.S.「・・・出来る時がある」とか「・・・ことがある」と断定せず、曖昧性を持たせたのは、聴力の程度の個人差により、すべての難聴者に、この心理が適用されるものではないからです。

n.t

 

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第15回 仕事と私

現在、私は農協で金融窓口業務を行っています。年配のお客様が多いので声を大きくして、分かりやすく伝えることを心がけています。
補聴器をつけた方もよくいらっしゃいます。

 人相手の仕事というのは、コミュニケーションが非常に大切であると思います。100人の方がいれば、100通りの接客があるのかもしれません。大変だけど、いつもお客様から学ぶことの多いこの仕事は私は結構好きです。

 仕事は何のためにするのかって、時々理由もなく考えてしまう時があります。私は幼少の頃から後遺症でよくめまいの発作を起こしていたので、体力がないという自負があります。だからとても睡眠が大切です。

 睡眠を削ってがむしゃらに何かに打ち込めば、結果体を壊します(笑)悲しいですが、これは変えられない事実です。
上手に付き合いながら、でも自分の目標であったり将来の夢には少しずつ近づきたいと思っています。

 仕事は勿論生活をしていく上で必要な金銭を得るためのものだと思います。だけど、それだけでは寂しい気もします。

 私は今せっかく金融業に携わっているので、もっと金融商品や保険、税金、社会保険、不動産関係などを勉強して、お客様に適確なアドバイスを行えるFP(ファイナンシャルアドバイザー)になりたいです。

 それで聴覚に限らずですけれど、障害をお持ちになっている方も気軽に相談をして頂けるようなアドバイザーになりたいです。

 今私のカウンターの左前には、簡単な取引が記載されたシートが置かれています。まだ使ったことはありませんが、いつか活用できれば良いなと思っています。

 耳マークも、私のいる支店に一番最初に設置できるよう、上司に相談してみようと思っています。 職場の所長を始め職員の方は、私の左耳の事を気にかけてくれていて、とても有難いなと思いますし感謝の気持ちでいっぱいになります。
 私が左側から話されると聞こえづらいのでと伝えた先輩は、私を指導する時よく右側に回ってきて下さいました。 たったこれだけの事なんですが、本当涙が出そうなくらい嬉しかったですし、きっとずっと忘れないと思います。

些細なことが苦しかったり悲しかったりしますが、人の温かい部分にこれだけ敏感になれるのも幸せなのかなと思います。

田宮の農協で、まだまだただの平ですが(笑)お客様に喜んで貰えるように、もっと自分の商品価値を増やしていきたいと思います。
 
もしこのコラムがきっかけで、一期一会があればそれも何かのご縁かと。
9割はしんどいし疲れちゃうのが本音の仕事ですけど、ぼちぼち夢に向かっていこうかなと思います。

                                                 junko

 

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第14回 難聴者自身が考えること

僕の場合は、普段補聴器をつけて生活している中で、条件や環境が整えば、健聴者とほぼ変わりなく、生活が出来ているようにも思います。

しかしひとたび、補聴器を外せば、会話もスムーズにいかなくなり、自分は難聴者なのだということを再認識します。

これが、視力が悪い人の場合だと、眼鏡やコンタクトレンズを装着することで、日常生活に全くといっていい程、支障がなく、普通の生活をすることが出来ると思いますが、難聴者や中途失聴者の場合、そうはいきません。

他人からは分かりにくい障害であることや、自ら打ち明けたり、説明したりすることが難しく、その援助方法も、さらに、難しいことなどがあるからです。自らの聴こえについて、配慮が必要なことを人に伝えることは、とても勇気がいり、どういうことを配慮してほしいのかを、自分自身でも、理解しがたい部分もあり、簡単にはいきません。

とても、勇気がいることですが、援助して欲しい旨を伝えなければ、周りには理解されないままです。

その不利や不安を少しでも解消する勇気を出させるために、「耳マーク」というのがあります。

この耳マークを持参していることは、周りに配慮をして欲しい旨を相手に分かってもらい、気遣ってもらうことが出来たり、公共施設や各関係機関が掲示をすることで、難聴者や聴覚障害者がスムーズにコミュニケーションを図れるように、配慮されているものだと、そう理解することが出来ます。

例えば、自動車を運転していて、車イスの障害者マーク、初心者マーク、高齢者マーク、これらのマークを街で、見かけたら、少なくとも、減速をしたり、車間距離を取ったりなどの、人それぞれの、「配慮」をすることでしょう。

同様に、この、「耳マーク」が普及することは、掲示や、持参している難聴者や聴覚障害者については、「筆記を伴う説明をする」、「ゆっくりと、やや大きな声で喋る」、「口を大きく開ける」など、聴こえに対する配慮をして欲しい旨を、何も言わなくても、自然に分かってもらうことができるのです。

ただ、近い将来、この耳マークの普及により、周りの理解が得られる日が訪れたとしても、お互いを思いやる気持ちは、常に忘れずにいたいと思います。お互いを分かり合える努力をし、難聴者自身が、他の難聴者に対して、配慮が出来るような気持ちでいたいです。

会議などで、良く聞き取れていないように見受けられる、同じ難聴者がいれば、そっと、メモを手渡したり、コミュニケーションが充分に取れていないような場合は、補足をしてあげたりなどです。

「思いやりの気持ち」を忘れずに、同じ難聴者との交流や活動をしていきたいと思っています。
聞こえないことの辛さや寂しさは、難聴者である僕たち自身が、一番よく知っていることだから・・・

n.t 

 

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第13回 2月の初めに風邪をひきました。

クシャミ、鼻水、鼻詰まり、咳、のどの痛みと熱がないだけで風邪薬の宣伝のような症です。

私の場合風邪をひくと聞こえが悪くなり実はそれが1番怖い、耳に栓をしたような状態になるからです。

すぐ耳鼻科へ行って薬をもらい鼻から耳に風を通すと聞こえるのですが、すぐ元どうりになってしまいます。1週間に1度薬をもらい風を通す事を繰り返していました。

でも1月の元気だった時2月17日24日とチームより団体戦の試合を言われており、2月に入ってこんな状態だから練習もしていないので、少し良くなった時練習に行ってみたのですが、これで又後戻りをしてしまいました。

団体戦では、人数が丁度である場合がほとんどなので欠場すると他の人の迷惑になり、そうも言っていられないので出場しましたが、1ヶ月余りたった今やっと聞こえが戻ってきました。

風邪の間中このまま聞こえなくなったらどうしようと思い苦しかったし電話も怖かった。
今までもこのような経験は何度かありましたが、こんなに長いのはなかったように思います。

この事があって思った事は、自分自身電話が使用出来なくなった時どのように通信手段を使えばいいのでしょうか?
もちろんパソコンや携帯のメールもありますしファックスや郵便もありますが、相手の方がパソコン、携帯電話をお持ちでない時にはどうにもならないですよね。
皆さんはどうされていますか?

  チャイム

 

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第12回 自助(セルフヘルプ)グループについて~当事者活動に関わった自らの体験

■自助グループとの関わりのきっかけ

私が自助(セルフヘルプ)グループと直接関わるようになったのは、今から20年ほど前、母親が神経難病のパーキンソン病に罹患し、「全国パーキンソン病友の会」と関わるようになって以来です。

この病気は緩やかながらも症状が進行し、やがては全身性の障害となって日常生活に大きな支障を来たします。もちろん本人も大変ですが、家族にとっては在宅での療養をどう支えていくかがテーマとなってきます。そんな中で考えたのは、そもそもパーキンソン病とはどんな病気か、症状に伴う身体の障害とはどのようなものか、同じ病気と闘っている他の患者さんや家族はこの病気とどう向き合い、付き合っているのだろうかということを知りたくなり、患者と家族が中心となって活動している「全国パーキンソン病友の会」と後に深く関わるようになったわけです。

■徳島「友の会」の発足

「全国パーキンソン病友の会」は、1998年時点で徳島には組織されていませんでした。そこで身近な地域で当事者同士が情報交換できる場が必要と考え、私も含め、7名で半年ほどかけて結成準備をし、1998年11月に「徳島県支部」を発足しました。

当事者である患者とその家族が中心となって運営するのが「自助(セルフヘルプ)グループ」です。私は当初からこの基本的なスタンスだけにはこだわりました。どんなに偉い専門職でも当事者が中心でなければ意味を成さない・・・。
専門職との協力関係は言うまでもなく必要ですが、会の構成はあくまで当事者中心、この「自助(セルフヘルプ)」というのがコアな部分でなければ当事者のためのグループとは成り得ないと考えていたのです。
活動の目的としては、パーキンソン病を必要以上に怖れず、侮らず、病気について正しい知識を得ること、上手な付き合い方、生活面での工夫などについて多くの人々との交流で学び合うこと、情報や経験を共有すること、視点や考え方を変えてみること、仲間や相談相手・支援者を得ること、そして住み慣れた地域の中でよりよい療養生活の環境を創りながら、パーキンソン病と共に「自分らしく自立していくこと」を掲げています。
具体的には、定例会の開催、機関紙(会報)の発行、情報誌の発送、医療講演会・各種相談会の開催、医療・福祉・保健などの専門職やボランティアの方々との相互理解とネットワークづくりの推進などをメインに行っています。
定例会では時にワークショップ形式(参加体験型)を取り入れ、自らの療養生活上の問題点を整理し、可能な限り解決、または改善していく方策を見出すなどの取り組みも行っています。 
■自助(セルフヘルプ)グループとは?

難病や心身の障害を持つ人たちをはじめとして、アルコールなどの依存症、身近な人を亡くした人たち、吃音の人たちなど、共通の問題を抱える人々が出会い、お互いの悩みや体験を分かち合って、自分で課題に対処できるようになる場であり、相互に援助し合うために、当事者によって自発的に組織され、運営されている自立性と継続性を有するグループのことだと言われています。
多くのグループは、会報の発行や定例会の開催などを行っており、そうした活動を通して当事者同士が交流を図りながら、お互いに知識を高め、情報を共有し、体験を分かち合うとともに、他の当事者の考え方や生き方と接することで、自分らしく自立していくための能力を向上させていきます。
また、地域の中で様々な分野の人々とのネットワークを築き、相互理解を深めるといった働きもあります。
おまかせの医療・福祉から、当事者自らが参加し、「自己選択・自己決定」する時代への変遷の中で、「セルフマネジメント」といった活動も実践されてきています。セルフヘルプグループが果たすべき役割は、今後ますます重要になるものと思われます。
なお、専門職の方の支援との違いには主に次のような特徴が挙げられるとされています。孤独感の緩和(自分だけではない)、自己の再発見(いろんな当事者の考え方・生き方を知り、自分を見つめ直す)、相互援助(自分自身を助けることが他の当事者を助けることになっている)、精神的な支え合い(共感と理解)。
最後になりましたが、「徳島県難聴者と支援者の会」が、地道ながらも息の長い自助(セルフヘルプ)グループとして発展されることを願っております。 打樋 茂之

 

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第11回 難聴への想い

小さい頃から重度難聴である祖父、30歳あたりから悪くなっていった実母、当時私は10歳くらいです。祖父とは同居していませんでしたので母との難聴のやりとりが今思えば、今の娘と私のようです。

 学校からの連絡、家への電話すべて娘である私がとっていました。なんと言ってるか伝言役です。

 父がいるときは父が代わりに応対するのですが、スーパーなどで質問されても母は判りませんでしたので私が代わりに答えたり、仲介したりしていました。役所関係もどこに行くのもそのころから一緒でした。母は外で働いたことのない人なので余計不安だったのでしょう。

 それが、今は人工内耳を入れ 60歳前に免許も取得し、一人で四国八十八か所をまわるなど一人でできなかった反動でしょうか。家族の心配も上の空であちこち飛び回っています。

 家族としては生き生きして楽しそうな母を見るのは心配ですが嬉しいことです。

 こんなそんなで私の家族は常に回りに聞こえない人がいればすぐ解説してあげる、みんなが話してて、知りたそうな目でみていたらすぐ説明する、これが普通になっていました。

 健聴家庭の主人の話では、どう接したらいいのか、どういう対応を望んでいるのか、難聴者でもどのくらい聞こえてる、聞こえてないがわからない。
 結局回りにそういう人がいなかったから私のようにはすぐできる人はいないよ。って言われるとそうだろうなぁ~と納得します。

 今自分の耳は高度難聴になり、外での対応に、わかってないようでもそのまま流せる人たちが普通なのか・・・
 知りたいという気持ちを押し殺す障害者もいるのか・・・。
といろいろな疑問にぶつかります。

社会では知る権利はあっても、聞こえない人に教える義務はないんですよね。

 様相論理でいう、
平等である権利がある = 平等である義務がある
という等式は成り立たないものである。
教えてもらう権利はある = 教えなければならない義務はない。

 こういうことで、要するに義務にすると強制であり、他人の自由である権利を奪うんですよね。
と自分は障害を持ちながら 障害者を支えてきた経歴も長かったので、両者の折り合う点を常に考えてきました。

 当たり前とは思わない!(障害者)、ありがとう配慮してくれての気持ちを常に持ち続け、聴覚ではできませが、他のことでは支えることができる立場ではまだまだありますので、他の障害をお持ちの方に、困っていれば自然に手をさしのべられる、そんな自然な支えあいができていければと思っています。

 そしてそういう社会になることの足がけに障害者の会を通じて、私たちが得る権利、そして私たちの行うべき活動でそういう自然な社会づくりに貢献できればとおもい参加しています。

 今は子育て時期でなかなか参加もままならないですが、その気持ちは常に心の底にあり、よりバリアフリーな徳島になっていってほしい願はやみません。

 これからも皆さんよりよい関係づくりに、楽しい難聴生活にしていきましょう。
よろしくお願いします。
                                          ふるふる

 

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第10回 優しさについて

去年の末、会員になった新米です。
実際まだ一度しか例会に参加していないので、まだお会いしていない方もいらっしゃいますが。
会の皆さんの印象は、とてもアットホームで温かい感じです。

 こんな風に書くと語弊があるかもしれませんが、皆さん普通に聞こえているように思えました。
それが私にとって少し驚きでもありました。

 私は事故の後遺症で、左耳がほとんど聞こえません。
なのでどうしても難聴障害を持つ方の聴こえは、自分の物差しで測ってしまうところがあります。
話を聞いていると、公共の施設(病院・役場)なども、障害を持つ人にとって不便な面が多々ありますね。

 私は病院が嫌いです(笑)
耳鼻科の医師で、本当にヤブに遭ったことがあって。信用が出来ないです。
でも優しい方もいました。そういう気持ちに触れると、とても嬉しかったし癒されました。

 私は、最近優しさについてよく考えることがあります。優しさって何でしょう?
自分が感じる、こうしたいという優しさと、相手が感じる優しさは違うのかもしれません。
だけど苦しい経験をすると、やっぱり人間的に一回り大きく強くなれる気がします。

 私は「言語聴覚士」という職業に長年憧れていました。
去年専門学校も受験しました。
社会人から学生になって、今の環境も全部捨てていこうと思っていました。
自身の片耳難聴で、ずっとそういった障害を持つ人の力になりたいと思っていた事が理由です。

 でも、ある人にこう言われました。
「何になるかじゃなく、何をするか」
もし言語聴覚士になれたとしても、ダイレクトに聴覚障害のリハが出来るとも限らない。
それなら、ずっと育ってきた徳島で、活動する方が自分にとって幸せなのかも、と。
結果仕事にしなくても、交流会や支援活動が大変有意義なものになっています。
ここで出会った先輩達、仲間を大切にしたいと思います。

人生って不思議で、色んな縁がありますよね。この一期一会を大切にしたいと思います。

 私にとっての優しさは、今のところ私が大好きな人達に笑って貰えることかな。
色んなストレスで、トゲトゲしくなってしまう事もあるけど。
人のためになっているようで、実は自分のためになっているのかなと思います。

                                               junko

 

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第9回 要約筆記のこと

要約筆記ってみなさんご存知でしょうか?OHP、パソコン、手書きノートテイクなど方法はいろいろあります。このホームページの要約筆記の頁をご覧になってください。
 要約筆記とは「話の内容」を「その場で」書いて「伝える」ことをいいます。文字数でいうと話しことばの2~3割程度しか書けません。しかし書ける文字数が2割でも話の内容をできるだけ伝えようとするのが要約筆記です。

 テレビから、あるデザイナーの話が流れていました。
「僕はねえ、子どもの頃、成績が悪かったんですよ。ほとんどが2か3でね。でもね、美術だけは点数良くってね。温情点というか・・・」
 この話を要約筆記にしたらどうなるでしょう。この話は50文字ありますが、書ける文字数はだいたい10~15文字くらいです。さあ、どんなふうに要約筆記しますか。

 たとえばAさんは「子どもの頃 美術だけは成績良かった。」Bさんは「小さい時は美術だけ点が良かった。」Cさんは「子ども時代は美術だけ好成績」など人によって書き方は違うけれど、話の本筋しか書くことができません。
 聞き手は「温情点・・・」と言ったところで、『フフフ』と笑っていました。けれどそのことを書く余裕がないのです。皆がどっと笑った時に、なんで笑うのか知りたいとよく言われます。でも瞬時に書けない。また、本筋だけを書いたにしても少し遅れる、タイムラグが生じます。ここのところが利用者の不満であろうかと思うし、要約筆記者にとっても辛いところです。「要約筆記の限界」でしょうか。

 聴覚障害者の聴力や聞こえ方は人により様々です。だから要約筆記の利用の仕方も様々だと思います。どんな書き方が その人にとって適切なのか考えて書く必要があるのかもしれません。しかし利用者の聴こえの状況などによって多少の文章の加・減はありながらも、基本は「話の本筋を書く」ことが要約筆記だと思います。

 私が要約筆記を始めて10年経ちますが、その間にも要約筆記の考え方は随分変ってきました。最近は「聴覚障害者の権利擁護のための要約筆記」と言われるようになりました。
 約40年前、要約筆記は難聴者が集まる会合から必要に迫られて、自然発生的に生まれたと聞いています。それがだんだん発展し、難聴者が社会の中で当たり前の生活や仕事をしていくための要約筆記として広がりつつあります。
 たとえば健聴者との会議の中では、難聴者が他の人と同じように発言ができる要約筆記をしなければなりません。これはとても難しいことです。(職場の研修等でのノートテイクがどれだけ難しいか・・・)でも、そんな要約筆記ができるようになりたいと思っています。

 要約筆記によって難聴者のハンディを少しでも解消できたらと、そんな気持ちで書いています。要約筆記や要約筆記者を育てるのは 利用される方々です。厳しい意見を言ったり、たまには褒めたりして、私たちを育ててください。よろしくお願いします。  
                                              hana

 

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