第4回 ついに・・・身障手帳を取得した。

今までは障害の受容が進まずに、また自分の聴力程度であれば、何度かの「エッ?何?」と、多くの「聞こえたフリ」でやってこれた為、手帳を取得することは否定的でした。
学校の健康診断や社会人になってからの職場健診での聴力検査でも、隠す事ができるかどうかしか考えておらず、まして聴力障害者と社会的に認定されることは、考えることの出来ない屈辱的なもののように考えていました・・・過去の自分にとっては。

手帳を取得することの意義やメリットも充分理解していませんでしたし・・・

それに地元の役所ということで、窓口には学生時代一緒に過ごした同級生が居たり、「ちょっといいなぁ~」なんて思っていた女の子が居たりなんかして、学生時代は補聴器をつけずに、「騙し騙し」「隠して隠して」生きてきた自分にとって、地元で取得するということは二重に勇気がいるものでした。

「手帳はあくまで福祉の補助を受けるためのものであって、自分は障害者であるかどうかなどといったこととは別問題です」
「経済負担の軽減や交通機関の減額のさまざまな制度があり利用する方が良いと思います。どのような制度であれ、多くの方が利用する事によって、より内容の充実したものになると思います」

こういった皆さんのあたたかい後押しの言葉と、多くの人の意見により、障害を持っている人の当然の権利として考えられるようになり、ようやく決心がつきました。

障害者手帳を取る決意のもと耳鼻科に行ってきたところ、ひっとしたら、ギリギリ通らない可能性もあったので、生活面での不自由さや語音明瞭度などの検査もして頂くことも視野に入れていましたが・・・病院の先生のところでは驚く程、スムーズに行きました。
「今の聴力なら該当しますから、将来的な事を考えた場合、持っていた方がいいね」と逆にすすめてくれたぐらいなので・・・診断書とともに役所へ関係書類を提出して、約1ヵ月後に手帳取得しました。

手帳取得後、親しい難聴仲間からは「おめでとう!」と言われました。同じ立場の難聴者からの言葉で、なかなか踏ん切りがつかなかった自分の勇気におめでとうだったり、今までの経緯や、また中軽度な難聴者であった場合は、医師の診断書がなかなか下りなかったりする事もあるらしいので、そんな意味も含めて「おめでとう」というそうなのです。
健聴者からの言葉であれば、少し皮肉に聞こえるのかもしれませんが・・・

でも今の僕は「おめでとう」と言われ、

「ありがとう」

と素直に言えます。

P.S.皆さん、また福祉サービスの情報を教えて下さいね

n.t

 

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第3回 ある施設での出来事を通して難聴について考えたこと

利用者A:
「トイレットペーパーがないんで、補充して!」

忙しい時に声を掛けられた職員Bは他の利用者の世話をしながら、「ちょっと、待って!後で補充しとくから」普通の声で喋る。

利用者A:
「ちょっと、どうなってるの?」

職員B:
「さっきから言ってるでしょ!ちょっと待ってて下さい。」で、つぶやく。
「もう、いつもあんな調子なんだから!あのAさんは自分の都合ばかり主張して・・・」

利用者Aは腑に落ちず、退散する。

※利用者Aは充分に聞こえておらず、全く理解が出来ていない。
※職員Bはちゃんと利用者Aに対して伝えていると思っている。

この場合、この利用者が認知症があるとか、また自分の都合ばかり言うとかいろいろな理由があるにせよ、ただ一点配慮してあげて欲しく思ったのは、この利用者Aさんは難聴であるということ。

この職員Bが難聴者に対しての理解が少しでもあれば、また「声はやや大きく、はっきりと、ゆっくりと、正面で・・・」
このことを知っていて、それを配慮しさえしてくれていれば、もっとコミュニケーションが進み、もっと意思疎通が図れたのにと、大変残念に思いました。
例え、認知症があろうとも、会話のキャッチボールをすることが出来るのにとも思いました・・・。

その上で、認知症や理解力うんぬんの話になるのにこれじゃ、スタートラインに立つことすら、させてあげず人格否定じゃないですか?

それに、この場合だと、一方的な会話になっており、難聴者の気持ちが痛いほど分かる自分としては、その会話を傍で聞いていて、もどかしくてしょうがなかったのです。むしろ逆に何が何でも分かってもらいたいとの気持ちがあり、通じなければ「やや」より「さらに大きく」喋る、筆談するとかの手段をもって、意思疎通を図りたいと思いました。
その職員Bの気持ちの上では、おそらく面倒くさかったり、どうせ聞こえたところで分かってもらえないだろうとかそんな気持ちがあったのかも知れませんが・・・(その後、職員Bが居ないところで、自分が代わりに喋りましたが。)

 最近つくづく感じるのは、周りの健聴者の皆さんの勘違いもありませんか?「あの人聞こえてるよ!」というまわりの思い込みもありませんか?

例えば、健聴者のCさんと難聴者のDさんが会話していて、敬老会の話で既に盛り上がっている際

Cさん:
「敬老会いくんかえ?」

※Dさんに実際に聞こえている内容
「ケ〇〇カ・・・・い・・かえ?」

Dさん:
「うん、今年は行くでよ!」

このような会話をした場合にCさんからしたら
「Dさんちゃんと聞こえてるよね!だからそんなに大きい声で言わなくても大丈夫だし、普通に喋って配慮なんてしなくても大丈夫よ!」

ちょっと待ってと言いたいのは、難聴者Dさんは、実際には聞こえの内容が部分部分しか聞こえていないのですが、この会話の流れだと、ケがつく言葉で、そのニュアンス、また疑問符で終わるような話だと多分敬老会のことだろうなと見当をつけ、その上で喋っているのです。
それゆえ、「敬老会いつあるんかえ?」と間違うこともあるかもしれませんが。

老若男女難聴者皆、考えながら、推測しながらの会話なのです。
この会話の流れだと、こういうことだな。と考えながら、ひょっとしてこうなのかな?と推測しながら、会話しているのですが、実際の聞こえはそうはっきりと、内容を全部聞き取る事が出来ているかどうかと言えば、その半分も聞こえていない事がほとんどなのです。(聴力dbにもよりますが)
そのために、予想だにしない、とんでもない聞き間違いを引き起こすこともよくあります。

ちなみに自分が最近犯した聞き間違い

「ア〇〇〇〇〇、やめるらしいぞ!記者会見してるぞ」

僕:
「エッ!やめるん!びっくりや!でも記者会見するって今ドリームランドにおるんちゃうんかえ?」

この時点で、朝青龍と安倍総理を勘違いして思い込んでしまっています。

最初の一文字の「ア」しか共通する言葉がないのですが、なぜこのような事になったのかというと、

例えば、連想ゲームをしながら・・・

問題:「ア」がつく人でやめると言って世間を騒がせる人は誰でしょう?

このような問題を瞬時に脳内で考えて推測してしまっているからなのです。

そもそも問題の時点で既に間違っているのに、滑稽な話です。

難聴者である僕達は、聞き取れた言葉の範囲内で考えながら、推測しながら喋っているので、少しでもその推測する材料を増やす努力をして欲しいのです。

「安倍総理大臣がやめるらしいぞ!」

「安倍内閣が発足したばかりやけど、総理がやめるらしいぞ!支持率も低下しているし、選挙にも負けたから仕方ないんだろうな!」

ここまで喋ってくれれば大丈夫です。

もうドリームランドでの記者会見とは間違えません・・・(笑)
nt

 

 

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第2回 山口県スポーツ交流会に参加して

初めは、この交流会に参加するのが友人ひとりだけだと聞いて、正直、
『自分も参加しなければよかったのかな~、どうせ参加するなら、香川県の皆さんが多く参加する方がいいのに・・・』  なんて思いながら、友人と一緒に高松から、高速道路で行きました。

結果からいうと、そこには、大変良い「出会い」と良い「思い出」がありました。
スポーツ交流会では、スポーツも面白い内容でしたが、「勝った負けた」で一喜一憂する・・・共に喜び、共に盛り上がる、そんな感覚に久しぶりに陥りました。
もちろん、職場や、健聴者の友人と同じようにスポーツをしたり、運動会をしたこともあります。でも、どこか冷めている自分がいて、知らず知らずのうちに心にバリアーを張っていて、
『自分は違う世界にいるんだ』と思っていました。
心の底から、『楽しむ』という感覚を忘れていただけに、余計にそう感じました。

ここでは、聴力dbの差こそあれ、難聴であることには変わりなく、遅かれ早かれ難聴であることに悩み、苦しみ、今の笑顔にたどり着いた人たちばかりなんだなぁ~とも感じました。
まあ、おかげで、僕の所属していたチームは見事優勝しましたが・・・

その後、部屋に帰り、宴会で料理やお酒を楽しんだあとに、自由交流会の前の少しの間、同部屋の皆が出て行き、部屋で独りでいましたが、その間、仰向けで天井を眺めていて、淋しく感じていた、以前の自分を思い出しました。
でも、『今は、独りじゃない!』悩みを分かち合える、共有し合える友達が、仲間が、ここには、こんなにいるんだと、感慨深く考えていました。
自分のモヤモヤした気持ちを吹き飛ばす、風になっていると、確かな自覚がありました。

その後の、自由交流会では、ざっくばらんに、語り明かしましたが、いろいろな仕事をしていたり、僕と同じような資格を持って、活躍していたりするのを聞いたりして、同じ難聴者として、いい刺激を受けました。そこでの出会いを、今後、社会でやっていく為の、糧にしたり、知恵を、もらったりして、頑張りたいなと思いました。

夜中まで及んだ語らいは、まるで、修学旅行のようで、楽しかったです。
(いつの時代も男と女が夜中に語り合う事って、少し、Hな内容だったり、初恋話だったりですね~笑)

僕は皆さんよりも、少しだけ、聴こえが良い方だとは思いましたが、それでも、難聴者としての悩みは同じようにあります。
聴こえなければ、『えっ?もう一回言って!』って臆することなく、気兼ねすることなく、言える、今の難聴友達との交流は、僕にとって、心地いいものです。

自分にとって、健聴者に求めるもの、難聴者と触れ合いたい部分なんかが、おぼろげながら見えてきたような感じでもあります。

皆さんとの『出会い』『活動』や『交流』を僕の心のオアシスにさせて頂きたいと思います。
今後ともよろしくお願いします。
n.t

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第1回 難聴活動に参加するようになって

僕が、難聴活動に参加するようになったキッカケは、周りに同じような悩みの難聴者がいないがゆえに、悩みを抱え込んだり発散する場がなかったことや、また一人で悩んでいることが寂しかったせいもありました。 

 中軽度難聴である為に、障害を受容することが出来ずに、「聴こえたフリ」や「愛想笑い」などをして、いわば『偽りの人生』を送ってきました。
しかし、先日行われた、山口利勝先生の講演は、自分の今まで感じてきたことや矛盾をすべて解消してくれるものでした。

 まさに、自分自身の「行動の正当化」をする根拠を示して頂きました。
「お前はすべて耳のせいにしている」「もっと聴こえの悪い人だっている」などと言われて、一度は自分の中で、頑張る決意をしてはみたものの、なかなか、社会では、難聴を隠しながらやっていくのは、難しく、また、自分自身でも、どういったことが社会で支障があるのか?どういったことを健聴者に援助してもらわなければならないのか?ということが理解出来ずにいました。

ついに、難聴のことをカミングアウトして、
「声を①やや大きく②ゆっくりと③はっきりと④口元をみせて・・・大事な用件の時は、静かな場所で、連絡事項は出来るだけ、書いて欲しい」
ということを言えた時は、自分自身の『勇気』が嬉しかったことを思い出します。

 今まで、他人と喋っていても漠然と聞いていて、自分自身のことすら分からず、自分の居場所をも探してフワフワとしている、宙に浮いている状態だった時があるだけに余計に嬉しかったです。
ただ、他人に援助をしてもらうばかりでなく、自分自身でも努力は必要だとも思います。
①よく聞き取れなかったことは何度でも聞くこと
②他人よりも情報源が狭いから、興味を持って積極的に関与していくこと
③謙虚な姿勢で持って、健聴者と共に・・・
 この点に気をつけながら、頑張っていきたいと思います。

 徳島の他の難聴者の方々と知り合いや友達になったりして、講演を聞いたり、演劇などをみたりするうちに、またその際も「ひこばえ」のスタッフの方々の協力おかげで、ホントに心から、理解でき楽しむことが出来ました。

 皆さんとの『出会い』や『活動』『交流』を僕の心のオアシスにさせて頂いてもよろしいですか?
どうか今後ともよろしくお願いします。
                                                 n.t

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